天皇制を維持するか否か
天皇制を維持するか否か(国体問題)は、連合国占領軍の大きな課題であったが、長年の間多くの国民の支持を受け続けていた天皇制を廃止すると逆に占領統治上の障害が生じるとして、連合国内の一部の反発を退け、北東アジアにおける共産主義の伸張を食い止める目的もあり、天皇制は維持されることに決定され、昭和天皇の戦争責任も追及されずに終わった。
上記の決定に伴い、昭和天皇は統帥権の放棄を行うなど戦前に儀礼的に就いていた全ての地位から退き、新たに「国民の象徴」という地位を持つことになった。
天皇制こそ維持されたものの、アメリカの指導により華族制度が廃止され、また、直系の皇族以外は皇族としての地位を失う(臣籍降下)ことになった。
1910年の日韓併合と同時に日本の王公族となった李王家の継承者である李垠は、これに合せて臣籍降下され事実上李王家は廃絶された。その後大韓民国が設立された後も李承晩大統領の妨害などもあり王位に戻ることはなかった。
新憲法
連合国軍最高司令官総司令部のマッカーサー総司令官の指示、決裁の元、アメリカ人がその大勢を占める総司令部の民政局長であるコートニー・ホイットニーらの手によって新憲法の草案が作成された。それを基に日本政府案が作られ、帝国議会での審議を経て、1946年11月3日に「日本国憲法」として公布された。
アメリカはこれ以前にも影響下に置いた中南米の国々に、アメリカにとって有利な内容を含む憲法[44]を半ば強要したことがあり、日本国憲法の制定もこれに習ったものだとの見方がある。また、日本国憲法が軍隊廃止条項をもつことから、冷戦時代は日米間の軍事協力に不都合なものとなり、冷戦後には国連などによる国際協力体制で軍事力の行使を含む平和維持活動を求められた際に問題となっている。このため冷戦時代より、この憲法が日本を不当に押さえ込む「押し付け憲法」と考え、改憲により「自主憲法」に変えようという主張・勢力が成立当初から存在したが、近年では自由民主党や民主党の保守系議員の一部を中心にその動きが盛んである。一方、日本社会党などの左翼政党はこれを軍備放棄の政策として歓迎(日本共産党は1960年代まで自主軍備や天皇制反対の立場から憲法改正を主張)、現在でも社会民主党、日本共産党などは護憲を主張しており、これらの間で「憲法改正論議」が冷戦時代から現在にかけて議論されている。
満洲国は1945年8月のソ連軍の侵攻後に、事実上の宗主国である日本が連合国に降伏したため瓦解し、その後、中国東北部の支配権はソ連の占領を経て中華民国に返還された。
皇帝である愛新覚羅溥儀は8月に退位し、その後日本へ逃亡する途中に侵攻してきたソ連軍に一緒に行動していた側近・閣僚とともに捕らえられ、その後1950年に中華民国の国民党政府ではなく、ソ連と友好的関係にあった中華人民共和国の中国共産党政府に引き渡され戦犯として服役した。
なお、皇室の一部は戦後日本に逃れたものの、溥儀の退位と逮捕、その弟である愛新覚羅溥傑などの主要皇族の逮捕に伴い皇室も事実上消滅した。
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清代以来日本が租借していた関東州を全て回収し、崩壊した満洲国に代わり満洲全土での主権を回復した。ただし、同盟国であるソ連の要請により、旅順・大連両港や旧東清鉄道の租借権が改めて貸与された。
フランスから広州湾租借地の返還を受けたが、イギリス領や同国租借地を含む香港はイギリス支配に復帰した。なお、マカオは中立国のポルトガル領であったことのみならず、租借地や戦争で奪い取った地でないこともあり、ポルトガル領のままとなった。
日清戦争で失った台湾島を日本から回復し、台湾島の住民も当初はこれを歓迎した。しかし、当時国共内戦を戦っていた中国国民党による過度な大陸への物資輸出と大陸からのインフレ波及により、台湾経済は混乱した。また、中国国民党は日本人に代わる特権階級として振舞い、台湾島住民の排斥と腐敗が横行した。中華民国政府による急速な中国化政策の推進は、台湾島住民との間に緊張を高めた。こうして1947年に二・二八事件が発生した。